美の万華鏡
美術館へいらしたお客様がつぶやいた言葉、思いがけないエピソードなど、
日頃の解説部の活動で耳にしたこぼれ話のコーナーです。
(更新中、画像のないところも順次UP予定です)
「朝の祈り」
1906年 林竹治郎 北海道立近代美術館蔵
林竹治郎は札幌一中(現札幌南高等学校)で美術の教師として教鞭をとっていました。教え子たちの中からたくさんの優れた芸術家が出ています。三岸好太郎も教え子の一人。ある日のお客様は「生徒は先生に恵まれ、先生もいい生徒に巡り合ったということだろうなー」としみじみ。
「朝の祈り」は第一回文展に北海道からただ一点入選した、北海道の洋画壇における記念的な作品です。道立近代美術館の人気作品の一つで、つい先頃にもお客様から「タイトルを忘れたけれど、テーブルを囲んでお祈りしている作品は展示していないのですか」との問いかけがあったばかりです。
「友情と影響」
「フジタの肖像」
1919年 モディリアーニ
北海道立近代美術館蔵
5年ほど前になりますが、(2018年5月)、サザビーズの競売でモディリアーニの油彩画に約172億円の値がつけられ話題を呼びました。わずか35歳で夭折したモディリアーニ。生前ほとんど認められていなかったこともあって現存する作品の少ない画家の一人で、むろんデッサンも市場に出回ることは稀。かつて(社)北海道美術館協力会が寄贈したモディリアーニ作「フジタの肖像」も幸運に支えられての入手だったといいます。
「自分の芸術の真の理解者はフジタ一人」と語っていたほどフジタに信頼を寄せていたモディリアーニ。一方、若くして逝ってしまった友が描いてくれた旨を書き添えて作品を生涯手元に置いていたというフジタ。二人の画家の交流を知ると、更なる探究心を刺激される作品といえましょう。
「二人の女」
1918年 藤田嗣治
北海道立近代美術館蔵
北海道立近代美術館の所蔵するレオナール・フジタの油彩画「二人の女」には若い二人の女性が描かれています。フジタとモディリアーニと最も親しく交流していた頃、1918年に制作されており、人物表現にモディリアーニの影響が指摘されてきました。ですが、長くモデルが誰なのか不明のままでした。しかし昨年、当館の学芸員の研究によってモデルがほぼ明らかになり、ハンカ・ズボロフスカとルニア・チェホフスカという二人の女性である可能性が高いことが判明しました。そしてこの二人のモデルはモディリアーニと親密な関係にあったこともわかっています。「二人の女」は二人の画家の友情と影響関係を探る格好の資料ともなる作品というわけです。
「『花ト蝶』(1932年)の恩人、41年ぶりに判明」
「花と蝶」
1932年 三岸好太郎 北海道立三岸好太郎美術館蔵
1969年、北大構内には学生運動の風が吹き荒れ、学生同士のセクト争いや機動隊との乱闘騒ぎが起きていました。「このままでは破壊されるかも」と作品の行く末を懸念した学生がいました。そして紛争の最中、三岸好太郎の油彩画「花ト蝶」はバリケード封鎖された教養部から夜そっと持ち出され、道立美術館へと運び込まれました。「花ト蝶」は蝶をモチーフにした最晩年の傑作群につながる重要作品です。救ってくれたのはいったい誰なのか?三岸美術館にとって、開館以来の課題となり、新聞紙上等で名乗り出てくれるよう何度も呼びかけたりしましたが、反応はありませんでした。
ところが、つい先頃、救出劇を聞いたという人の話から辿っていくことができ41年ぶりに恩人が判明。昨年末、北海道新聞の一面トップを飾りました。当時は医学生でした。運転を頼んだ同級生もなくなり、カモフラージュのために同行を依頼した女子学生が誰かも分からなくなってしまったという63歳の医師。「多くの資料が失われた責任は免れられない」からと名乗ることを固辞しましたが、救出の経緯がわかり学芸員はお礼をいうことができて何よりと語っています。
「朝の祈り」パートⅡ
「朝の祈り」
1906年 林竹治郎 北海道立近代美術館蔵
敬虔な祈りの場面が描かれた林竹治郎の作品『朝の祈り』。画面中央、卓袱台が大きく陣取っています。一部のお客様はそれに目を留め「懐かしい」との感想を漏らされます。こうした丸く大きな座卓、卓袱台は、少し前まではごく一般的な日本の家族の食事時には欠かせないものでした。
当作品でもさりげない家具としての登場と思いきや、実際には少し違った意味合いも込められていた模様。『ちゃぶ台の昭和』(小泉和子著)という本には『朝の祈り』の写真がそのまま掲載されていて、その脇には何と「日本の封建的道徳から一歩離れている若いクリスチャン一家の思想の新しさを卓袱台によって表現している」という説明文が付いているのです。作者の進取の気性まで読み取れるとは驚き。
日本は人間関係の上下が重視される社会であったため、古代から近世まで集まって食事するときには身分による順序に基づき整然と並び、銘々膳を使用。平等に会することになる卓袱台は明治20年代になって使い始められ、全国的に定着したのは昭和10年代に入ってからだったといいます。
(以前に掲載された「朝の祈り」の記事をご覧になりたい方は「こちら」をクリックしてください)
道化が手に持っているアイマスクは?
「面の男」 1928年 三岸好太郎 北海道立三岸好太郎美術館蔵
三岸好太郎の描いた道化には、手にアイマスクを持っている肖像が幾つかあります。この作品が描かれたのは1928年(昭和3年)。この頃札幌の中島公園の菖蒲池では、真冬の2月11日(紀元節)に氷上カーニバルが行われ、仮装した市民や有名人など多くの人達が集まって、スケートを楽しんでいました。ワルツが流れ、その音楽にのって人々が滑る。三岸の札幌の親しい友人に北海石版所の二代目、本間紹夫がいます。三岸の作品「女の顔」は本間石版所で試みられていますが、この本間紹夫が氷上カーニバルで仮装に用いたアイマスクが、もしかしたら「面の男」の手に持っているものかもしれませんね。ちなみに本間紹夫の「室内」1925年の作品(近美所蔵)にも同じマスクが描かれています。
カーニバルは1925年から行われ、黒澤明の映画「白痴」でも紹介されています。
札幌って今とは比べものにならないくらい、異国的な香りのする街だったんですね。
画家がインスピレーションを受けたものは?
「星月夜」1991年 国松登 北海道立近代美術館蔵
「黄昏」 1994年 国松登 北海道立近代美術館蔵
生まれは函館、その後、小樽・札幌に住み、北海道の美術界を牽引してきた画家・国松登。「眼のない魚」をはじめ長く続いた「氷人」シリーズなど、同じモチーフを展開させてきた画家が最後に登場させたのが大きな象でした。
いかにも北国らしい氷人シリーズは流氷が押し寄せる根室で目にした灯台からイメージを膨らませていったと語っていますが、いったい象は何をきっかけに描くようになったのか気になるところ。ご子息の彫刻家・国松明日香氏によると「母に、自宅庭の白樺の木の根元を指し『象の足にみえるだろ』と話していたので、木の根がもとかも」とのこと。木の根から連想して巨大な象が生まれたとは!
また国松登の作品には初期の小樽公園を描いた「池」に始まり、雪や氷も「水」と、とらえると延々と「水」が描き続けられています。明日香氏は「父の絵に登場する水は父が幼年期に抱いていた淋しさと結びついている気がする」と書き記しています。実際、晩年の作者は「自分の絵から氷が解けるのはいつなのだろう」とよく言っていたといいます。そしてはからずも絶筆となった「黄昏」。そこには雪も氷もなく作者の自画像とも映る大きな象が白樺の木々の間を狐に見送られて去っていく姿が描かれていたのです。
(「星月夜」は2012年1月15日まで三岸好太郎美術館にて展示)
「色と形」が表わすものは…?
「月夜」 1982-83年 花田和治 北海道立近代美術館蔵
シンプルな色と形でさまざまな情景を表現する画家花田和治。作家自身が眼にした自然や風景からインスピレーションを得て、抽象表現による叙情的な世界を描き出しています。
それでは「月夜」は、どのようにして生まれたのでしょうか。
作家の話によれば、今から40年ほど前、スカンディナヴィア半島の西岸を列車で北上し、北極圏内に位置するノルウェーの町ナルヴィク(Narvik)を訪れたことがあるそうです。その際、窓から見た月がとても美しかった。窓から身を乗り出すとフィヨルドの海は冬なのに凍ることもなく静かで、空には漆黒の闇の中に満月が浮かびとても美しかった。今もその印象は忘れられないと語っています。
「月夜」は、そのときから10年ほど後に描かれたものです。ノルウェーで見た満月の印象は、作家の心の中で長い時を経て熟成し、一つの作品となって表現されました。
「卵」
1997 イヴァン・マレシュ 北海道立近代美術館蔵
高さ75cm、幅は1mを超えるガラスの巨大な卵です。太いロープを編んだような形で中は空洞ですが、重さも相当なもの。なんと450㎏もあります。従って移動させるのは大変。収蔵庫から展示室へ移すにあたっては必ず機械を用い、専門業者の手を煩わせなければなりません。そして、いったん設置しましたら場所の変更はご法度。どんなに大きくても、重量感にあふれていても、あくまでも素材は繊細で壊れやすいガラス。美術作品はいずれも注意深い扱いが絶対条件ですが、中でもこちらの卵は学芸員泣かせの作品のひとつなのです。
「大津絵つくし(鬼の念仏)」
歌川国貞(1786~1864) 北海道立近代美術館蔵
部分(着物の柄)
★着物の柄<1>
浮世絵鑑賞の楽しみの一つは細部にこだわって観ることです。例えば、着物の柄。歌川国貞『大津絵つくし(鬼の念仏)』の着物の模様は雁金(かりがね)。縞をバックに空を飛ぶ雁を散らし、軽やかなリズムを作り出しています。(細部参照)着物の柄以外でも様々なかけ合わせが画面では見られます。たとえば遊女の後方に脱ぎ捨てられている草履。片方がひっくり返りそうになって、底面を見せていますね。コマ絵(画面上方に嵌めこまれた小さな絵)の鬼とも関係するこの草履が持つ意味は、遊女の心の二面性を表しているとか。くわばら、くわばら…。
「大津絵つくし(瓢箪駒)」
歌川国貞(1786~1864) 北海道立近代美術館蔵
★着物の柄<2>
同じ大津絵の「瓢箪駒」の着物は三筋格子。三本の筋を縦横の格子としたもので、“渋味の中の粋”の演出に一役かっています。そのほかにも「当世夏景色(朝かほ)」では常磐津、小唄、長唄などの音曲各派の紋があしらわれています。作品のテーマ、歌の稽古を装いからも盛り上げているのです。といった具合に着物の柄だけに注目しても楽しめること請け合いです。まだまだ見所が沢山、実際にあなたの目で確認してみませんか。
「思事鏡写絵(猫)」
歌川国貞(1786~1864) 北海道立近代美術館蔵
★房楊枝
歌川国貞「思事鏡写絵(猫)」は遊里の遅い朝の一コマを描いた浮世絵です。猫を抱き上げた女性は長い楊枝をくわえています。房楊枝といって、用途は歯ブラシ。日本に楊枝が伝わったのは奈良時代。お釈迦様が弟子に木の枝で歯を磨くことを教えたそうで、仏教と共に伝わりました。房楊枝は片方の先をたたいて房のようにしてあります。ちょうど鉛筆くらいの長さと太さで、歯を磨くほか既婚の女性がお歯黒の鉄漿(かね)を塗るのにも用いました。食べ物の違いもあると思いますが、当時は歯磨きとお歯黒の効果で虫歯も少なかったといいます。因みに歯磨き粉として使われていたのは砂と塩、それに香料をプラスしたもの。特に房州(現在の千葉)の砂が高価だったそうです。
「女の顔」
1932年 三岸好太郎 三岸好太郎美術館蔵
★「女の顔」(リトグラフ・石版画)は、三岸好太郎が昭和7年8月から11月まで札幌に長期滞在した際に友人であった本間紹夫の工房「北海石版所」で制作されました。女性の顔を描いた素描はたくさん残されていて紙に墨やコンテで描いた作品もあります。リトグラフの「女の顔」は同年10月に開催された独立美術協会秋季展に「道化」「少女」などとともに出品されました。
★「女の顔」についてはこんな内輪話もあります。昭和42年9月3日、三岸好太郎の作品をもとに北海道立美術館(三岸好太郎記念室)が開館しました。その開館式に際して「女の顔」のリトグラフが招待者に記念品として贈られました。北海石版所に大事に保管されていた大理石の石版を用い、本間紹夫自ら刷ってくれたそうです。本間紹夫は、そのわずかひと月余り後の昭和42年10月18日に札幌の東病院で亡くなりました。このくだりについては、工藤欣弥氏(元・三岸好太郎美術館長)が著作「美術館の小径」で詳しく述べています。「女の顔」は、三岸好太郎と本間紹夫の友情の証ともいえる作品です。ぜひ、美術館に足を運び、二人の熱き友情に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
★二人のお嬢さんと鰻・・・三岸好太郎や上野山清貢といった画家達と本間紹夫との親しい関係は、作品にも表れており、『赤衣の少女』(上野山清貢)や『赤い服の少女』(三岸好太郎)は本間家の二人のお嬢さん達がモデルです。『赤衣の少女』のモデルとなった長女の方のお話では鰻にまつわるこんな話も。道展の創立当時、中島公園近くには胡蝶園という名の本間家の別荘があり、画家達の交流の場となっていました。近くには鰻屋さんがあったのですが、ときにその生簀から川へウナギが逃亡。本間家では、鰻屋さんにその旨お知らせする傍ら、ほんの少量を頂戴し、本間家の当主・紹夫画伯がみごとな包丁裁きを披露して、画家たち皆でご相伴に与ったりしましたとか。
「どこで手に入るの? 知る人ぞ知る、人気の紙袋」
写真は紙袋(上)と原画の素描「オーケストラ」1933年(下)
北海道立三岸好太郎美術館蔵
今、三岸好太郎美術館で隠れた人気の品があるのをご存知ですか?色は好太郎の好きだった黄色、人気作品「オーケストラ」のデッサンがプリントされています。
そう、図録や書籍・絵ハガキなどを買うと商品を入れてくれる紙袋がその品で、書籍類と共に館内に入ってすぐ右にある喫茶コーナー「きねずみ」で扱っています。「袋だけ譲って」と頼まれることもあるそうですが、もちろんそれのみ売っているわけではありません。どうぞ、図録をお求めになり、この素敵な黄色い紙袋をゲットしてみませんか?
「きねずみ」のコーヒーはこれまた知る人ぞ知るおいしさで有名です。
お昼休みにはわざわざ食後のコーヒーを飲みに来る人もいるほど。
一服の薫り高いコーヒーは作品鑑賞の余韻をやさしく包み込んでくれます。
三岸好太郎、世界的なヴァイオリニストの来日公演にも出かける!
大正10年札幌一中を卒業後、画家を目指して上京した三岸好太郎の環境はなかなか厳しく、一番の親友 俣野第四郎と同じ下宿に住み、絵画の勉強も独学を余儀なくされます。洋食屋に入ってもご飯だけを注文。テーブルの上の調味料をおかずに空腹を満たすなどという日常を送っていました。そんな中にあって、何と世界的なヴァイオリニスト、クライスラー(1835~1962 「ウィーン綺想曲」などの作曲などで有名。オーストリア生まれのアメリカ人)の来日公演に出かけたといいます。俣野と同じく一中の後輩で画家となる久保守と連れ立って。当時、クライスラーの公演は大変な人気を呼びチケットも飛び抜けて高額でした。
共に音楽に造詣の深かった俣野と久保(みずからヴァイオリンも弾き作品にも音楽的モチーフの作品も多数)。二人の友が三岸を音楽へと導いてくれたと推察されます。
三岸は「ソフトを凹ませ、コール天のズボンにスカーフの蝶結び」という精一杯の身なりで、帝国劇場へ出かけたという文章を久保守が残しています。(昔は音楽会にでかけるのも一大イベントで演奏者への礼儀として聴衆も必ず盛装でした。)
「マーヴェラス・ヴォイス」-写真の主が判明
「マーヴェラス・ボイス」 1933年頃 三岸好太郎 北海度立三岸好太郎美術館蔵
短い間にめまぐるしく画風をかえた夭折の画家三岸好太郎。1933(昭和8)年頃、一時期、コラージュという技法にも挑戦しています。「マーヴェラス・ヴォイス」と名付けられた作品もその一つ。
印刷物から切り抜いたと推測される、男性の横顔写真が、目から下の部分を解剖図に変えられ貼り付けられています。いったい誰の顔なのか、わからずにきました。
ところがこの度、思いがけない事から写真の主が誰であるか判明したのです。今、大変注目のチェリスト 宮田大さん(2011年第9回ロストロポ-ヴィッチ・チェロコンクールの優勝者)がつい先ごろ、札幌での演奏会の折、三岸好太郎美術館に来館されました。そして、かの作品を前にして宮田さんと共に鑑賞していたマネージャーさんが一言、「あ、エンリコ・カルーソーですね」。
その言葉に促され、資料を当たってみると、確かに髪の毛の後退状況に微妙な違いこそあれ、まぎれもなくイタリアのテノール歌手エンリコ・カルーソーその人でした。オペラ歌手史上最も有名な歌手の一人で声量と声の美しさを誇ったといいます。まさにマーヴェラス・ヴォイス(奇跡的に素晴らしい声)の持ち主ということで、いともあっさり解決したわけです。さて、これで“絵の読み解き方”が違ってくるでしょうか。